* * * * ――そして、翌週土曜日の午後。いよいよ純也さんの家を訪問する日がやってきた。「それじゃ、さやかちゃん、珠莉ちゃん。行ってきます!」 寮の食堂で昼食を済ませ、外出の支度をした愛美はルームメイトで親友の二人に声をかけた。「うん、気をつけて行っといで」「愛美さん、門限までには帰って来られるんですわよね?」「もちろんだよ、珠莉ちゃん。そんなに遅くまではいないよ。わたし、純也さんにちゃんと自分のホントの気持ち、伝えてくるね。――じゃあ、行ってきます」 愛美はこの日のために、前もって外出許可をもらっていた。その条件が「門限までに寮へ帰ってくること」だった。 純也さんは良識のある人なので、まだ女子大生である愛美を遅くまで引き留めはしないだろう。 寮を出発した愛美はまず地下鉄でJR新横浜駅まで出て、そこから新幹線に乗り換えた。そのチケットももちろん予約しておいたものだ。 品川駅で新幹線を下車し、あとはスマホのナビアプリを頼りにして電車を乗り換え、東急線の二子玉川駅で降りた。ここが、純也さんが住んでいるマンションの最寄り駅らしい。 駅前からナビアプリを頼りに歩くこと二十分、ようやく辿り着いた三十五階建てのタワーマンションはその外観から高級感が漂っていて、愛美はとにかく圧倒されていた。「ここかぁ……、立派なマンション……」 彼が住んでいるのは最上階のペントハウスというわけではないらしいけれど、それでも二十七階は超高層の部屋である。賃貸なのか買ったのかは分からないけれど、どちらにしても決して安くはないだろう。 なかなかエントランスへ踏み込む勇気が出なくて、しばらくは近くをウロウロと歩き回っていた愛美は、一人の初老の男性に声をかけられた。「――失礼ですが、相川愛美様でいらっしゃいますでしょうか?」「あ……、はい。そうですけど」 その穏やかな声色に、愛美は聞き覚えがあった。「あの……もしかして、あなたが久留島さんですか? いつかはお電話を下さってありがとうございました」「はい、私が久留島でございます。さ、マンションの中へどうぞ。ボスが――いえ、辺唐院純也氏がお待ちでございます」 愛美はようやく、オートロックの鍵を持つ久留島さんと一緒にマンションのエントランスの自動ドアを抜けた。コンシ
****『拝啓、純也さん。 純也さんからの直筆の手紙、ビックリしたけど嬉しかったです。ありがとう。 純也さんは純也さんで悩んでたんだね。わたしもそうじゃないかって思ってたよ。だから、園長先生に言ったんだよね? 自分が援助してることを、わたしが気づいてるかもしれないって。 でもね、純也さん。心配しないで。もしあなたがもっと早く本当のことを打ち明けてくれてたとしても、わたしの気持ちがあなたから離れることはなかったから。あなたに幻滅することなんてあり得ない。だってあなたは、わたしの文才を早い段階から認めてくれてて。ずっと背中を押し続けてくれてた人なんだから。そして、わたしを見捨てないでいてくれた唯一の理事さんだったから。 わたし、ずっと気になってたことがあるの。あなたは女性不信で女の子が苦手だったはずなのに、どうしてわたしに手を差し伸べてくれたのかな、って。 でね、わたしなりに理由を考えてみたの。 純也さん、あなたはずっと家族からの愛を感じられずに育ってきたんだよね。だから、わかば園のみんなのことを「家族みたいだ」って作文に書けたわたしが羨ましくなったのかな、って。 わたしは両親がどうして死んじゃったのか、つい最近まで理由を知らなかったから、わたしにとって〝家族〟と呼べるのはあの施設のみんなしかいなかったの。でも確かに、わたしはあの施設で園長先生や他の先生たち、そしてお兄さんお姉さん、弟や妹たちから大事に思われてきたから、「家族ってこんな感じなのかな」って自然と思うことができたの。あんなにいい施設で暮らすことができたわたしはすごく恵まれてると思う。 ……話が逸れちゃったね。ごめんなさい。純也さんの言うとおり、わたしにはまだ純也さんに話してないことがあります。それこそが、プロポーズを断っちゃった本当の理由です。 でも、手紙に書くとうまく伝えられる自信がないので、直接会って話したいです。来週の土曜日、夕方四時ごろ、純也さんのマンションまで行きます。東京に行くのはもう三回目だし、スマホのナビもあるから道に迷う心配はありません。もう小さな子供じゃないんだから。 その時には、純也さんからも話してほしいな。わたしを援助しようと思ってくれた本当の理由、一緒に答え合わせをしようよ。 純也さん、お仕事が忙しいと思うけど、体調には気をつけてね。それじゃまた、来週の土曜
****『愛美ちゃんへ この手紙を田中次郎名義で出そうか、それとも僕の名前で出そうか迷ったけど、君に僕の正直な気持ちを伝えるために辺唐院純也として出すことにした。そして手紙にしたのは、電話では話しにくいし、メッセージやメールには書ききれないと思ったから。 まずはこの三年間、君を欺いてきたことを謝らせてほしい。本名を隠して援助していたことは、僕のわがままでしかない。君にも言ったけど、本当のことを早く打ち明けられたらどれだけ楽だろうと、何度思ったか分からない。でも、できなかったんだ。いつか君に幻滅されるんじゃないかって、ずっと怖くて言えなかった。まさか君が、だいぶ早い段階からその事実に気づいていたとは思っていなかったから。 それでも君は、「どうして本当のことを話してくれないのか」って一度も僕を問い詰めなかったね。それどころか、事実を知ったうえでずっと気づいていないフリをしてくれていたんだね。僕はずっと、その君の優しさに甘えていたんだ。自分でも、なんてズルい男だと情けなく思う。本当にごめん。 プロポーズを断られたこと、はっきり言ってショックだった。僕はてっきり、君が断ることはないだろうと思っていたから。でも、あの時の返事だけが君の本心のすべてじゃないとも思っている。まだ、僕に打ち明けられていない本当の理由があるんじゃないかな? 僕はもっと君の気持ちを知りたい。僕たちはもっとお互いのことを知るべきだと思うんだ。だから、一度、僕の家で二人でじっくり話し合ってみないか? 君に見せたいものもあるし、僕がどうして君の援助に名乗りを上げたのかも聞いてほしい。 僕の家、といっても実家じゃなくて、僕が一人で住んでいるタワーマンション。部屋番号は分かるよね? 時間は来週の土曜日の夕方四時ごろでどうだろう? 返事を待っているよ。六月十四日 辺唐院純也』****「――純也さんが、わたしの援助に名乗りを上げた理由……」 手紙を最後まで読み終わった愛美は、その一文に指をなぞらせた。 聡美園長から聞いた話によれば、彼は女の子が苦手なので愛美より前には男の子の援助しかしてこなかったという。でも、愛美の書いた作文を読んで、「この文才を埋もれさせてはいけない」と思い、愛美の高校進学の際には後ろ盾となることに決めたそうだ。 実際に女性不信だと知った今、彼はどうして自
* * * *「――ええっ!? 純也さんからのプロポーズ、断っちゃったの!? なんでよ!?」 その日の夜、寮の部屋で純也さんに「結婚できない」と伝えたことを打ち明けた愛美に、さやかが食ってかかった。「なんで断っちゃったのかなぁって、わたしも後悔してるんだよ……」「ということは、お断りしたのはあなたの本心ではなかった、ということね?」 うなだれる愛美に、珠莉がそうフォローを入れた。「うん、多分……。でも、自分でもよく分かんなくて。ただね、断ったのは、わたしの中にまだ何か引っかかってることがあるからだとは思ってるんだけど」「それが何なのか、自分でも分かってない感じ?」「うん」「そっか……」 純也さんと別れた後、彼からは何の連絡も来ていない。彼の方だって、どうして断られたのか納得はいっていないはずなのに。「でも、純也さんと別れることにしたわけじゃないから。これからもお付き合いは続いていくし、援助してもらった金額だって今日返した分だけじゃまだ足りてないから、これからも少しずつ返していくつもり。まずは、彼と対等な立場になれないと、結婚だって難しいんじゃないかと思うから」「結局それなんじゃないの? 愛美が結婚をためらってる理由って」「……う~ん、そうかも」 いくら法律上は成人でもう大人だといっても、経済的にはまだ自立できていない以上は自分の中で〝大人〟になり切れていないのではないか、と思っているのかもしれない。「だったら、どうしてそれを正直に話さなかったのさ? それがアンタの本心なんでしょ?」「プライドがジャマして言えなかったの。なんか、結局はお金目当てで好きになったみたいだと思っちゃったから。でも、次に彼と会った時には正直に話そうと思う」「それがいいよ。正直になりな」「そうよ、愛美さん。叔父さまだって、あなたの正直な気持ちをお知りになりたいはずだもの」「そう……だね」 親友二人に背中を押され、愛美は純也さんに今度こそ自分の正直な気持ちを打ち明けようと心に決めたのだった。 * * * * ――それから数日後。愛美に一通の手紙が届いた。「…………えっ!? 純也さんからだ。珍しい」 差出人の名前に〝辺唐院純也〟とあるのを見て、愛美は目を丸くした。彼とは今まで電話かメッセージアプリでしか連絡を取り合っていなかったので、彼から
「――愛美ちゃん、ちょっと待って! それは……本心で言ってるの?」「うん、もちろん本心だよ。冗談で言ってないことくらい、わたしの目を見たら分かるはずでしょ?」「それは……うん。君が冗談でそういうこと言うような子じゃないって、俺もよく知ってるけど。理由、聞かせてもらってもいいかな? 俺の何がいけない? どうすればいい?」 愛美の言葉にただうろたえるばかりの純也さんは、三十二歳の大人の男性ではなく、ただ大好きな女の子に捨てられまいと必死になっている思春期の男の子のようだった。「純也さんは何も悪くないよ。だから、まずはこのお金を黙って受け取ってほしいの。それがわたしにとってのけじめになるから。残りの分も、ちゃんと分割で返していくから心配しないで」「愛美ちゃん、さっきも言ったけど、俺は君から返済なんか――」「分かってるよ。あくまでこれは、わたしからの気持ちの押し付けだって。でもね、今までどおり純也さんと付き合っていくには、こうしないとわたしが前に進めないの。それだけは分かって」「……それって、俺と別れるつもりではないってことだね? そういうことなら分かった。このお金は受け取っておくよ」 何はともあれ、純也さんが自分の誠意を受け取ってくれたことに愛美は安心した。「でね、ここからが本題なんだけど。わたしがプロポーズを断る理由は多分、やっぱり施設で育ったことに負い目を感じてたからだと思う。……純也さんは『気にしなくていい』って言ってくれたけど、純也さんのお家に嫁ぐってなるとやっぱり気にしちゃうんだよね。わたしとあなたは元々住む世界の違う人間だったはずだから」 二人を繋いでいたのは、純也さんによる〝あしながおじさん〟=保護者としての援助だった。愛美が高校も卒業し、自分の道を歩み始めた今となっては、その繋がりもなくなってしまった。 愛美には両親がいない。そして実家もない。そんな女性を、プライドの高い辺唐院家が嫁として受け入れてくれるはずがないと愛美は思っているのだ。「純也さんはわたしの両親が航空機事故で亡くなったことを知ってるからいいけど、他の人たちはそういう事情を何も知らないでしょ? だからわたしのこと、『施設で育った卑しい子』としか見てくれないと思うの」「両親や兄夫婦は俺が説得するよ。君の生い立ちについてもちゃんと話す。それでもダメなら、あの家とは縁を
* * * * ――愛美はその後、ショッピングのついでにとりあえずATMで百万円を引き出し、純也さんに「明日、会いたい」とメッセージを送信した。 そして、翌日の日曜の午後――。純也さんはいつものとおり、自分の車を運転して横浜まで来てくれた。「やあ、愛美ちゃん。待った?」「ううん、わたしも少し前に来たところ。ゴメンね、せっかくのお休みの日に呼び出しちゃって」「いや、愛美ちゃんにならいつ呼ばれても大歓迎だよ」 ……なんていう会話をしながら、愛美は車の助手席に乗り込んだのだけれど――。「あのね、純也さん。今日、純也さんを呼び出したのは、これを受け取ってほしくて」 愛美はトートバッグから現金百万円の入った封筒を取り出して、純也さんに押し付けた。「……ん? これは?」「あなたに今まで援助してもらった分のお金の一部です。百万円入ってます。昨日、短編集の印税が振り込まれてたから」「…………えっ、ちょっと待ってくれ! 俺は君にお金を援助した憶えなんか……、あ」 純也さんが気づいたようなので、愛美は「うん」と大きく頷いてから打ち明けた。今まで彼に話していなかった本当のことを。「今までずっと言わなくてごめんなさい。わたし、実はだいぶ前から分かってたの。〝あしながおじさん〟の正体があなただってこと」「……やっぱり、そうだったのか。そうじゃないかとは薄々感じてたけど」 愛美のカミングアウトに、純也さんは驚いた様子がなかった。「実はわたしね、冬に〈わかば園〉へ行った時に、聡美園長からその話も聞いてたの。でも純也さん、いつからそう感じてたの?」「二年前の秋……くらいだったかな。君からの手紙の文体が急に砕けた感じになって、それで『もしかしたら』って気づいたんだ。でも、君からの手紙が急に来なくなったわけじゃなかったから、気のせいだろうって自分に言い聞かせてきたんだけど。……じゃあ、その頃からすでに知ってた?」「うん。……でもね、それをずっと言わなかったのは、純也さんがいつか打ち明けてくれるのを待ってたから。純也さん、わたしと付き合い始めてからずっと苦しんでたんじゃない? 保護者としての自分と、恋人としての自分の間で板挟みになって」「それは……うん、そうだな。俺の方こそ、いっそのこと本当のことをぶっちゃけてしまえたらどれだけ楽だろうって、何度思ったか分か